秋のウィーン国立歌劇場日本公演に向けて、オペラ・ファンの期待は高まるばかり! 2回にわたり、2つの演目の主要歌手を音楽ジャーナリストとして活躍する池上輝彦さんに紹介していただきます。まずは『フィガロの結婚』から。あらためてウィーン国立歌劇場が誇るこの演目を最大限に楽しませてくれる歌手陣の魅力を知ると、さらにわくわくしてきます!
ウィーン国立歌劇場が最も多く上演してきたオペラがモーツァルトの『フィガロの結婚』。日本公演の演目に選ぶのも2025年の今回で7回目だ。史上最多の上演を誇る演目にこそバリー・コスキーの新演出で挑むところが伝統と先進性の同歌劇場の流儀だ。現代人にも分かりやすい演出で18世紀の封建権力をコミカルに浮き彫りにするドラマは、若手・中堅を中心とした旬の歌手陣によって演じられる。これ以上はない注目のキャストを見てみよう。
アルマヴィーヴァ伯爵役のアンドレ・シュエンはイタリアの南チロル州出身のバリトン。風光明媚なドロミテ・アルプスの山麓で育ったシュエンはイタリア語とドイツ語、それにロマンス語派のラディン語(ドロミテ語)を話すトリリンガルという。こうした多言語の才能はモーツァルトのオペラに生かされる。『フィガロの結婚』の台本はモーツァルトの母語ドイツ語ではなくイタリア語だ。
封建的特権「初夜権」の復活をもくろみ、フィガロの婚約者スザンナを狙う伯爵は、このオペラのコミカルな側面を担うとともに、パワハラ、セクハラ、不倫、DV(配偶者からの暴力)といった現代的な問題を体現した存在でもある。シュエンの滑らかで艶のあるバリトンは高音域やピアニシモにまで行き届き、様々な状況での伯爵の行動と心理を表情豊かに描き出す。2023年のザルツブルク音楽祭の『フィガロの結婚』でも伯爵役で出演するなど、彼の表現力は全盛期にある。
シュエンはドイツ・リートやオラトリオも得意とし、国際的評価を得ている。バッハ『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ曲』、ハイドン『天地創造』、モーツァルト『レクイエム』などでの活躍も目立つ。シューベルトの『冬の旅』やマーラーの歌曲も彼の主要レパートリーとなっている。多様な歌の世界を持つ実力派であり、今回は旬の伯爵役を聴けるチャンスだ。
夫の浮気を嘆き、愁いを帯びたアルマヴィーヴァ伯爵夫人役はドイツ出身のソプラノ、ハンナ=エリザベット・ミュラー。2014年のザルツブルク復活祭音楽祭でティーレマン指揮によるリヒャルト・シュトラウス『アラベラ』のズデンカ役で脚光を浴び、世界に知られた。これまでウィーン国立歌劇場のほか、バイエルン国立歌劇場やメトロポリタン歌劇場、ミラノ・スカラ座など欧米の名門オペラハウスに頻繁に参加している。
透明感があり、澄み切った輝きを放つ声質には定評がある。そうした彼女の歌唱はワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のエヴァ役のほか、R.シュトラウスの『4つの最後の歌』、マーラーの『交響曲第4番』など清澄なコンサート演目でも強みを発揮し、世界中で人気を博している。
ミュラーの活躍ぶりを見ると、R.シュトラウスが得意な歌手はモーツァルトも得意という印象を持つ。実は深刻な題材を扱っていても、微笑やユーモアは絶やさないといった共通するニュアンス。ウィーン国立歌劇場2025年日本公演のもう一つの演目、R.シュトラウス『ばらの騎士』元帥夫人とはまた似て非なる憂愁の貴婦人をミュラーがどう歌い演じるか。彼女のアリアや重唱に期待がかかる。
ミラノ生まれのイタリア人バス、リッカルド・ファッシは2014年、伊コモのテアトロ・ソチャーレでのグラハム・ヴィック演出によるモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のマゼット役でデビューした。ファッシが得意とするのは、歌うように表情豊かな美しい低音を意味するバッソ・カンタービレの作品。プッチーニ『ラ・ボエーム』のコッリーネ、ベッリーニ『夢遊病の女』のロドルフォ伯爵、同『ノルマ』のオロヴェーゾなどが当たり役だ。
フィガロも高い評価を受けている役。バッソ・カンタービレの実力が遺憾なく発揮され、美しいアリアや重唱が期待できる。フィガロは何と言っても重要な題名役。コミカルな立ち振る舞いの演技力、状況の劇的変化に即応する表情豊かな歌唱力が要求される。ミラノ・スカラ座やローマ歌劇場、英国ロイヤル・オペラなど主要なオペラハウスで近年豊富な実績を上げているファッシ。この題名役が東京で新たな名声を彼にもたらすことは間違いない。
イン・ファンは中国・寧波生まれのソプラノ。ジュリアード音楽院と上海音楽院で学び、メトロポリタン歌劇場の若手アーティスト育成プログラムを経て、今や同歌劇場のモーツァルトのオペラには欠かせない歌手と評価されている。シンプルで直線的、見通しのいい明快な歌声はモーツァルトの純真無垢なアリアと相性がいい。『魔笛』のパミーナ役、『イドメネオ』のイリア役なども得意とする。
ウィーン国立歌劇場へのデビューは2023年、フィリップ・ジョルダン指揮、コスキー新演出の『フィガロの結婚』スザンナ役。今回の日本公演はベルトラン・ド・ビリー指揮だが、世界が注目するイン・ファンのスザンナを東京で聴ける。モーツァルトの声楽曲はシンプルで簡単そうに聴こえるが、歌声が聴き手に直接的に届くため、声の透明度や純度が重要になる。『フィガロの結婚』では彼女の純度の高い歌唱を楽しめるだけではない。他の歌手との重唱ではどのような響きを創り出すのか、興味は尽きない。
最後に、忘れてはいけない重要な脇役、小姓のケルビーノ。伯爵に仕えながらも伯爵夫人に恋慕し、伯爵に連隊行きを命じられるズボン役だ。演じるのはオーストリア出身の若手メゾ・ソプラノ、パトリツィア・ノルツ。2020年からウィーン国立歌劇場のオペラスタジオに在籍し、現在は同歌劇場のアンサンブル・メンバーとして活躍している期待の若手だ。モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナをはじめ数々の舞台を経験し、役柄の幅を広げている。
ノルツは豊かな声量を支えに、高音域やピアニシモできめ細やかな変化を加えるなど劇的な表現力を備えている。ケルビーノ役はまだ幼さが残る少年の恋心を表現する必要がある。せわしげに落ち着きなく立ち振る舞うノルツの演技にも注目だ。ノルツの歌唱と演技がこの脇役の存在感を高め、『フィガロの結婚』の魅力を一段と引き上げるはずだ。
『フィガロの結婚』より
左から伯爵夫人(ハンナ=エリザベット・ミュラー)、スザンナ(イン・ファン)、フィガロ(リッカルド・ファッシ)、アントニオ、伯爵(アンドレ・シュエン)
Photo: Michael Poehn
伝統と多様性の融合を誇るウィーン国立歌劇場。世界中から結集した旬の歌手陣が創り出す新時代の『フィガロの結婚』。最先端を行くオペラの楽しさが東京で広がる。
池上輝彦(音楽ライター、日本経済新聞社シニアメディアプロデューサー)
指揮:ベルトラン・ド・ビリー
演出:バリー・コスキー
10月5日(日)14:00 東京文化会館
10月7日(火)15:00 東京文化会館
10月9日(木)18:00 東京文化会館
10月11日(土)14:00 東京文化会館
10月12日(日)14:00 東京文化会館
[予定される主な出演者]
アルマヴィーヴァ伯爵:アンドレ・シュエン
伯爵夫人:ハンナ=エリザベット・ミュラー
スザンナ:イン・ファン
フィガロ:リッカルド・ファッシ
ケルビーノ:パトリツィア・ノルツ
演奏:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
指揮:フィリップ・ジョルダン
演出:オットー・シェンク
10月20日(月)15:00 東京文化会館
10月22日(水)15:00 東京文化会館
10月24日(金)15:00 東京文化会館
10月26日(日)14:00 東京文化会館
[予定される主な出演者]
陸軍元帥ヴェルテンベルク侯爵夫人:カミラ・ニールンド
オックス男爵:ピーター・ローズ
オクタヴィアン:サマンサ・ハンキー
ファーニナル:アドリアン・エレート
ゾフィー:カタリナ・コンラディ
演奏:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
―平日料金
S=¥79,000 A=¥69,000 B=¥55,000
C=¥44,000 D=¥36,000 E=¥26,000
サポーターシート=¥129,000(S席+寄付金¥50,000)
U39シート=¥19,000 U29シート=¥10,000
―土日料金
S=¥82,000 A=¥72,000 B=¥58,000
C=¥47,000 D=¥39,000 E=¥29,000
サポーターシート=¥132,000(S席+寄付金¥50,000)
U39シート=¥21,000 U29シート=¥13,000