ウィーン国立歌劇場2025年日本公演公式アンバサダーの中谷美紀さんがこの6月、日本公演に先駆けて現地ウィーンで『ばらの騎士』を鑑賞。その様子と作品の魅力をレポートしてくれました。本作を鑑賞するのは初めてという中谷さんですが、作品への深い洞察と感動がつづられています。
去る6月、かつての城壁の跡地に建てられたウィーン国立歌劇場にて、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』を鑑賞する機会に恵まれた。
愛する人の生首を求め、死の舞踏を踊る王女を描いたオスカー・ワイルド原作の『サロメ』や、ギリシャ悲劇から引用した母親殺しの『エレクトラ』など、官能的かつ、家族間の愛憎による血生臭い殺戮の物語でよく知られるR.シュトラウスの歌劇は、ウィーンやザルツブルクでも日常的に上演されている。
その中でも、軽妙でロマンティックな喜劇(オペラ・ブッファ)に属する『ばらの騎士』を生で鑑賞したのは、生まれてはじめてのことだった。
作曲家自身の「モーツアルトのようなオペラを創作してみたい」との思いから作られたというこの物語は、権力を振りかざして若い女性を我が物にしようとする横暴な男性と、その周囲で翻弄される人々のあれやこれやを面白おかしく描きつつ、放漫な貴族社会への鋭い風刺も多分に含んでいる。
ドレスデン宮廷歌劇場における1911年の初演時には、ウィーンやベルリン、ミュンヘンなどからも鉄道で十数時間かけて観客が押し寄せたとのこと、それはまるで、今日における大谷選手の試合や、テイラー・スウィフトのライブツアーのような熱狂ぶりだったことが窺える。
夫の遠征中に、若く美しき伯爵オクタヴィアンを自らの寝室に招き、「いまぼくの手があなたの手に重なり、あなたをほしいと想い、しがみつく」「あなたは私の恋人、だいじな人、あなたが大好き」などと、つかの間の甘い交歓をはかなむように愛をささやき合う元帥夫人のもとに、礼儀知らずで横暴な田舎の没落貴族オックス男爵が突然やって来る。
男たちが糟糠(そうこう)の妻をほったらかしにして、仕事や外遊にかまけている間に、夫の不在をいいことに、若き間男との逢瀬を楽しむ女が存在するのは、いつの時代も変わらない。客席には決して他人事とは思えない紳士淑女が肝を冷やしておいでのことと拝察する。
従兄弟のオックス男爵が、不意を突いてやって来たものだから、道ならぬ恋の形跡を必死で隠そうとする元帥夫人は、オクタヴィアンをベッドの天蓋の裏へと追いやる。
アルコールやたばこ、汗の匂いまで感じさせるような古いタイプの男らしさを象徴するオックス男爵に対して、花の香りすらただようかのように頭のてっぺんからつま先まで清潔感で溢れ、優美で礼儀正しいオクタヴィアンを演じるのはメゾ・ソプラノ、つまりは女性歌手の役割で、宝塚歌劇団の男装の麗人を彷彿とさせる。
通称ズボン役と言われるオクタヴィアンが、想定外の来訪客に慌てて女装をし、召使いに扮して物語で重要な役割を担うのは、この度の引っ越し公演でも上演されるモーツァルト作曲の『フィガロの結婚』における小姓ケルビーノの描写にも通じており、二つの作品は、貴族社会への風刺、男性優位な社会への意趣返し、そしてこの男装の麗人による女装という点で酷似しており、対になっているといっても過言ではないだろう。
さて、オックス男爵が元帥夫人のもとを訪ねてきたのは、ブルジョア出身の新興貴族ファーニナル家の娘ゾフィーとの婚約に際し、銀のばらを届ける代理人="ばらの騎士"の紹介を求めてのことだった。
形骸化した自らの階級をこれみよがしに振りかざして、身分は自分よりいくぶん劣るものの、しつけの行き届いた若い娘を娶ろうという話をする傍らで、召使いに扮したオクタヴィアンにまで色目を使い、女性蔑視もはなはだしく、ボディータッチを繰り返したり、無粋な言葉を投げかけるオックス男爵の姿に、時代の変化に気づかずに、古い価値観のまま振る舞う身近な人物を重ねて苦笑するお客さまもいらっしゃることだろう。
元帥夫人の推薦により、オックス男爵の名代でファーニナル家に到着した"ばらの騎士"を迎えたゾフィーの瞳が、銀のばらを携えたオクタヴィアンの美しく洗練された姿に釘付けになると同時に、私たち聴衆もまた、現実には存在しない"ばらの騎士"の清廉なたたずまいに魅了され、心拍数が上昇するのを止めることはできない。
それは、女性なら誰でも一度は憧れたことのある、白馬に乗った王子さまそのもので、オックス男爵の使者オクタヴィアンに、貴族の家系図で読んだという彼の個人情報を、はにかみながらも根掘り葉掘り尋ねるゾフィーを教育係が思わずたしなめるほど。
程なくして訪れた花婿は、期待していたような秀麗な御仁ではなく、貴族とは名ばかりの、粗野で鼻持ちならないおじさんだった。「おまえはすべて俺のもの、俺といれば夜はあっという間」などと上機嫌で歌いながら、独りよがりなワルツを踊るオックス男爵の姿はなんと滑稽なことか。
花嫁になるはずだったゾフィーが瞬く間に結婚への意欲を失い、オクタヴィアンに首ったけなのは一目瞭然である。
当のオクタヴィアンも、可憐で心優しいゾフィーについ心を奪われ、若い娘なら誰でもよく、財産目当てで婚姻の契を結ぼうとするオックス男爵から彼女を守ろうと、再びあの女装をして、オックス男爵を居酒屋に呼び寄せ、色気を使って計略を演じるのだ。
村人や警察を巻き込んでオックス男爵を懲らしめる締めくくりには、はからずも元帥夫人が手を差し伸べることとなった。
傍若無人な従兄弟に「威厳を保って身を引くのです」という場面は、武士道にも通ずる美徳としての撤退を迫るもので、人格者たる元帥夫人の尊厳ある振る舞いには平伏したくなる。
「ものごとには終わりというものがあるの。すべてのことはこの時をもって終わったの」
この茶番劇の終幕とともにオックス男爵の婚約は破談となったのと同時に、オクタヴィアンとの親密な関係にも終止符が打たれたことを自ら悟る元帥夫人。
はからずも第一次世界大戦を目前に控え、時代の移り変わりと共に衰退してゆくオーストリア・ハンガリー帝国を予見するかのような歌詞であり、諸行無常の境地でもある。
ひいては、リュミエール兄弟が活動写真を商業的に成功させて以来、オペラそのものの存在意義が揺るがされるであろうことを暗喩的に述べていたのかもしれないとすら思える。
さて、最後のクライマックス、誰もがハンカチをそっと取り出したくなるような圧巻の三重唱では、ゾフィーに心を奪われつつも、恋人であった元帥夫人の登場に狼狽するオクタヴィアンの張り裂けそうな心情が、痛いほどに伝わってくる。
そしてまた、元帥夫人とのただならぬ関係に気づいたゾフィーがつかの間抱いた恋心を恥じるかのようにつぶやく「すべては仮面劇だったのね」という言葉には、虚しさがにじむ。
しかし、ここでもまた元帥夫人の崇高な諦念が、女性たちの涙腺を緩ませるのだ。
恋敵にすら寛大な慈悲の心を示し、自ら身を引いてオクタヴィアンとゾフィーの幸せを願う元帥夫人の態度は、まさに今し方オックス男爵に放った「嫌なことがあっても上機嫌で、それでこそ貴族としての体面が保てる」という言葉を自ら体現していた。
黄昏時を迎えた華々しきウィーンの貴族社会をユーモアたっぷりに風刺する一方で、元帥夫人が心変わりしたオクタヴィアンをゆるし、手放すことによって見せる成熟した魂と優美さは、まさに釈迦が到達した涅槃の境地のようである。
今はなきオーストリア・ハンガリー帝国の、小さな貴族社会の男女のいざこざを描きつつも、貴賤を問わず、いつの世も人間の根源的な愚かさは変わらないものであり、だからこそ、そのような愚かさを受け入れ、ゆるし、慈しむのだという、この作品の普遍性こそが、初演から115年近く経た今もなお愛される理由なのだろう。
今年1月に亡くなったオットー・シェンクによる演出は、私たちを18世紀のウィーンへと瞬時にタイムスリップさせてくれる。
苦難のコロナ禍を経て、9年ぶりにやって来るウィーン国立歌劇場の引っ越し公演でも、極上のオーケストラによる伴奏にて、世界屈指の歌い手たちの人智を超えた歌声に酔いしれ、この感動を味わうことができることを今から心待ちにしているのは、決して私だけではないはずだ。
取材・文:中谷美紀(俳優)

指揮:ベルトラン・ド・ビリー
演出:バリー・コスキー
10月5日(日)14:00 東京文化会館
10月7日(火)15:00 東京文化会館
10月9日(木)18:00 東京文化会館
10月11日(土)14:00 東京文化会館
10月12日(日)14:00 東京文化会館
[予定される主な出演者]
アルマヴィーヴァ伯爵:アンドレ・シュエン
伯爵夫人:ハンナ=エリザベット・ミュラー
スザンナ:イン・ファン
フィガロ:リッカルド・ファッシ
ケルビーノ:パトリツィア・ノルツ
演奏:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
指揮:フィリップ・ジョルダン
演出:オットー・シェンク
10月20日(月)15:00 東京文化会館
10月22日(水)15:00 東京文化会館
10月24日(金)15:00 東京文化会館
10月26日(日)14:00 東京文化会館
[予定される主な出演者]
陸軍元帥ヴェルテンベルク侯爵夫人:カミラ・ニールンド
オックス男爵:ピーター・ローズ
オクタヴィアン:サマンサ・ハンキー
ファーニナル:アドリアン・エレート
ゾフィー:カタリナ・コンラディ
演奏:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
―平日料金
S=¥79,000 A=¥69,000 B=¥55,000
C=¥44,000 D=¥36,000 E=¥26,000
サポーターシート=¥129,000(S席+寄付金¥50,000)
U39シート=¥19,000 U29シート=¥10,000
―土日料金
S=¥82,000 A=¥72,000 B=¥58,000
C=¥47,000 D=¥39,000 E=¥29,000
サポーターシート=¥132,000(S席+寄付金¥50,000)
U39シート=¥21,000 U29シート=¥13,000