新『起承転々』〜漂流篇VOL.8 劇場事情

劇場事情

 今回のバイエルン国立歌劇場日本公演は、キリル・ペトレンコの独擅場だった。ペトレンコは初来日のうえ、CDもほとんどなく、インタビューも一切受けず、公の場にも出てこないからマスコミへの露出も少ない。にもかかわらず、ベルリン・フィルの次期首席指揮者に指名されていることもあって、音楽ファンから熱い注目を集めることになった。中にはお手並み拝見と斜にかまえていた人も少なくなかったのではないか。それだけに神秘のベールを脱いだ後のペトレンコへの熱狂ぶりは、凄まじいものがあった。
 相当な偏屈者かと思えば、けっしてそんなことはない。ちょっとシャイなのは確かだが、ともかく音楽のことしか考えたくない、音楽のことだけに時間を使いたいという求道者タイプで、「ぼくをスコア(楽譜)と二人きりにさせてくれ」というのが、邪魔を排除するための決まり文句らしい。リハーサルも微に入り細をうがち、このリハーサルがあってこそ、あの精緻でみずみずしい音楽が生まれるのだと得心した。
 ペトレンコが指揮した『タンホイザー』が3公演とも平日の3時開演のマチネだったことから、「行きたくても平日の昼間はどうしても仕事を休めない」というファンの悲痛な叫びを何度も聞いた。我々も当然オペラの公演を土日祝に入れたいと思っているが、ツアー全体のスケジュールや会場の事情で、思い通りにならないことが多い。招聘する歌劇場側は、自由に使える自前の劇場をもっているが、我々はそのつど、東京文化会館やNHKホール、神奈川県民ホールを借りなければならないのだ。歌劇場側にいくら日本の劇場事情を説明しても理解してもらえない。日本公演の契約の話は通常3~4年前には具体化しているので、何らかの事情で急に1年近く前になってこの日は借りられないなどという事態が起きたら悲劇だ。これまでも日本の劇場側と招聘団体側の言い分の間に立って、夜も眠れないような苦しみを何度も味わってきた。
 2年前、劇場が次々に閉鎖されて劇場不足の問題がマスコミでクローズアップされたことがあったが、劇場が減ったことで当方の活動にも少なからぬ影響が出ている。とりわけ、当方がバレエ公演で頻繁に使っていたゆうぽうとホールの閉鎖は大きな打撃だ。今年の10月10日で新国立劇場は開場してから20年が経ったことになる。きっと新聞や雑誌などでも20年を総括する記事が載るのではないかと思っているが、先の劇場不足の問題を経て、既存の東京都内の劇場をいかに活用するかも検討されはじめている。このNBSニュースの読者の中には、故・佐々木忠次が新国立劇場批判の急先鋒だったことを憶えている人も少なくないと思う。はじめ佐々木は国立のオペラハウスをつくるために命をかけるくらい精力的に運動していたが、佐々木の思い描いていたオペラハウス構想からどんどんかけ離れていったことに失望し、やがて新国立劇場を批判する側に回った。いまでも時々「佐々木さんが言っていたとおりになったじゃないか」いう声を聞くが、20年という歳月は恩讐を超えさせるに十分だ。佐々木は生前、「自分の目の黒いうちは新国立劇場に足を踏み入れない」と話していたが、劇場不足の問題もあって、NBSは昨年10月に初めて新国立劇場の中劇場を借りて、モーリス・ベジャール振付の『ザ・カブキ』を上演した。因果はめぐり、その公演が佐々木忠次の追悼公演になってしまった。
 新国立劇場が開場した20年前と比較して、都内の劇場事情が改善しているとは思えない。劇場不足が話題になっていたころ、関係団体が集まって築地の市場跡地に劇場を建てて欲しいと、舛添前知事に陳情したが、前知事の辞任とともに雲散霧消してしまった。劇場不足は簡単には解決しそうにないが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの終了を待って工事休館に入る劇場もあるらしい。東京五輪の文化プログラムが終った後、ただでさえも舞台芸術の世界が一気に元気がなくなるのではないかと懸念されているが、劇場の休館がそれを助長することにならないかと心配だ。
 オペラやバレエはヨーロッパ発のグローバルな芸術だが、近年はアジアの近隣諸国へもその勢力を拡大し、各国で次々と立派な劇場も建っている。この分野では日本はアジアの先進国だったはずだが、数十年前に建った劇場は老朽化し、観客も高齢化が進み、なかなか明るい未来像が見えてこない。このNBSニュースで言葉を変えて何度か書いているが、東京五輪の文化プログラムをテコに、いかに上昇気流に乗せるかは、我々関係者と行政が一体となって取り組まなければならない課題だと思っている。東京五輪という追い風を背に、去る6月に「文化芸術基本法」が制定されたことをバネに、このタイミングで大きく変わらなければ、浮揚する機会を逸し、やがて失速していくのは目に見えている。新国立劇場の開場はわが国の舞台芸術界にとって大きな転機になるはずだった。あれから20年が経ち、世の中は大きく様変わりしたが、劇場はグローバルな芸術の世界に向けた発信基地としてますます重要になるだろう。我々民間の細腕でできることは限られているから、政治や行政レベルでも今後の劇場のあり方を考え直す時期にきていると思うのだが、どうだろう。