新『起承転々』〜漂流篇VOL.28 オペラ・チケットの値段

オペラ・チケットの値段

 新聞をめくっていてフランコ・ゼッフィレッリの訃報を見つけ、思わず声を上げてしまった。96歳だから天寿をまっとうしたことになるのだろうが、これでまた一つの時代が終ったように感じる。オペラ・ファンにはおなじみの演出家だが、『ロミオとジュリエット』や『ブラザー・サン シスター・ムーン』など映画監督としても名を馳せた。NBSが引越公演で上演したゼッフィレッリの演出作品は、英国ロイヤル・オペラが1979年に上演した『トスカ』、ミラノ・スカラ座が81年に上演した『オテロ』と『ボエーム』、88年の『トゥーランドット』と『ボエーム』、2009年の『アイーダ』だが、いずれも贅を尽くした舞台で観客の度肝を抜いた。ゼッフィレッリの絢爛豪華な舞台を観て、オペラに嵌まった人も多いのではないか。まさに日本のオペラ引越公演史の全盛期を象徴するような演出家だったといえるかもしれない。
 あの時代がオペラ引越公演の黄金期だとすれば、いまは氷河期か。年々オペラの引越公演を取り巻く状況が冷え込んできている。観客が高齢化する一方、若い観客が育っていないから、以前と比べ客席の熱量が下がっているように思う。ホテル代や航空運賃をはじめ制作費の高騰など問題は山積しているが、芸術的な質を落とすわけにもいかず、これ以上入場料を上げると客離れが起こるから、それもできないでいる。NBSの創立者・佐々木忠次の時代は黄金期だったが、佐々木から後事を託された私の時代は氷河期だと愚痴りたくもなる。
 先ごろ、オリンピックの観戦チケットの抽選結果が発表された。開会式の30万円は別にしても、それぞれの競技の入場料も13万円から2千5百円と、けっして安くはない。スポーツも舞台芸術もナマモノであり一期一会だから、チケット代が高いか安いかは人によって受けとめ方も違うだろう。佐々木忠次は20年前(1999年)に「オペラ・チケットの値段」(講談社/絶版)と題する本を上梓している。久々に読み返してみたが、佐々木もいかにオペラが金食い虫であり、引越公演のチケット代はけっして高くないとまくし立てるように記している。時代は移り、引越公演の状況はどんどん変わっているが、私もここで引越公演のチケット代はけっして高くないことをアピールしたい。いまの時代、世界の一流歌劇場の入場料を知りたいと思ったら、インターネットで簡単に調べることができる。たとえば、まもなく東京・横浜で公演をおこなう英国ロイヤル・オペラの最高席は59,000円だが、現地ロンドンでの今年のロイヤル・オペラの『運命の力』のプレミエは最高席で285ポンド、日本円で約42,000円だった。同じく『ワルキューレ』のプレミエの最高席は300ポンドだから、日本円で約44,000円だ。日本での引越公演の場合は、単純に言って現地でかかる公演費用のほか、団員スタッフの航空運賃と宿泊費、舞台装置や衣裳の運搬費、会場の借用料、日本人のスタッフ経費、広告宣伝費などが余計にかかる。入場料の体系が異なるので単純に比較できないにしても、現地で観たら安いのに、日本の引越公演は高いという偏見が根強くあるが、それを変えなければならない。
 とはいえ、我々はオペラ引越公演の一番の課題は入場料が高いことだと思っていて、少しでも入場料を下げるべく悪戦苦闘している。スポンサーや寄付をしてくれる人がどうしても必要だ。先日も紹介してくれる人がいて、ある企業を訪ねた。担当者はどうやら寄付を頼んでくる人の対応に慣れているらしく、「本当にオペラの引越公演って必要なのでしょうか」とおっしゃる。たしかに、何でもかんでも支援したら、お金がいくらあっても足りないだろう。いかに体よく断るかが、彼の仕事なのだろうと思った。彼からしたら、我々は物乞いか、文化ヤクザのような煙たい存在なのかもしれない。当方、頭を下げることには慣れているものの、オペラ引越公演の支援者を募る活動は、卑小感と自己嫌悪にさいなまれることもたびたびだ。
 そもそもオペラの引越公演の意義が認められていないのではないか。オペラにかぎらず外来のオーケストラやバレエ団だって引越公演といえるだろう。戦後からさまざまな外来のオーケストラが日本にやってきたが、そうした歴史がなかったら、今日の日本のオーケストラ界はどうなっていただろう。日本のオペラ界、バレエ界しかりだ。日本の観客は世界一だと海外のアーティストたちは口を揃えるが、それも日本に居ながらにして世界の一流体験ができたから、観客の耳や目が肥えたのではないか。近年は世界中の芸術団体が、国境を超え、世界を股にかけて活動するようになっている。とくにグローバルな芸術であるオペラ、バレエ、オーケストラによる国際交流はますます活発になってきている。私はこれまでの経験からオペラの引越公演は公的な機関がやるべきであって、民間でやり続けるには限界があると思っている。NBSが手を引いたら、まちがいなく引越公演の舞台は中国や韓国、シンガポールに移ってしまうだろう。そのうち、上海までいかなければ一流歌劇場の引越公演が観られない時代が来るかもしれない。オペラは総合芸術であり舞台芸術の頂点であるが、金食い虫でもある。ゼッフィレッリも映画で儲け、その儲けを舞台に注ぎ込んでいたという。これからもオペラ引越公演という大食漢の“巨象”を飼養していくためには、ともかく“巨象”をいとしく思い、可愛がってくれる人を増やさなければならないと思っている。