「"聖なる怪物(Sacred Monsters または Monstres Sacres)" という言い回しは、女優サラ・ベルナール(1845-1923)のような演劇界の大スターのニックネームとして、19世紀フランスで使われ始めた。今日、観客およびメディアによって偶像視さ 選手のように、現代社会ならではのスターの出現を象徴する呼称でもある。

 『聖なる怪物たち』は、シルヴィ・ギエムとアクラム・カーンという、今日のダンス界を代表する二人のスターの出会いと交感によって誕生した。華やかなスターの座には、しかし、また別の側面がある。観客の期待通りに、完全無欠でなくてはならないのだ。失敗や欠点は許されず、自分の感情や本心を表明する余地もない。偶像という立場は、非人間的な怪物にほかならない。

 そのよう立場は他人事ではない。私達は、誰しも子供の頃、周囲の大人の期待に応えなくてはならなかった。両親や教師達の期待にがんじがらめになっていた。(中略)全ての子供は、多かれ少なかれ "聖なる怪物" なのである」

 シルヴィ・ギエムとアクラム・カーンが互いの子供時代を回想し合ったことが、『聖なる怪物たち』の出発地点の一つになっている。年少時にプロフェッショナルとして歩み始めた二人は、同じような経験を積んでいることに気付いた。しかし二人が本作の創作過程で発見した共通点は、それだけではない。古典的な伝統に身を投じ、訓練を受け、今日もそれを重んじる一方で、二人は、実験を熱望し、新たな知識を吸収し、自分自身の声を見出そうとしているのである。

「眼前にあったのは、まったく違う二つの世界だった。古典舞踊の世界は、伝統と歴史を授けてくれる。それは神聖で霊的なものでもあった。コンテンポラリー・ダンスの世界は、実験の場だ。他人に語りかける自分ならではの声を得ることができる。無数の可能性を見つけることもできる。私にとって最良の居場所は、双方の世界に手が届く地点だ。私はひとつの世界に居座りたくはない。いつも動いていたい。テニスボールのように、二つの世界を自由に行き来し続けたい。いちばん好きなのは、真ん中にいる瞬間だ。つまり、テニスコートのネットの真上にいる時、わたしはもっとも幸せなのだ」

アクラム・カーン

 権威と知性の象徴でもあり、ストレートなラインのダンスで表現される。インドの神々のなかでもっとも人間的な神、クリシュナ神には、探求的かつ反抗的な一面がある。その居場所は体を二分する中心線の外側あり、弧を描く動きで表現されることが多い。

 シルヴィ・ギエムとアクラム・カーンのキャリアの歩み方と、彼らがアーティストとしてリスクを好む傾向は、クリシュナ神を連想させる。しばしば唐突に大人の重圧に押しつぶれそうになるサリー(チャーリー・ブラウンの妹)にも二人は似ている。というよりも、私達大人が子供の不思議さを維持するために、奮闘しているのかもしれない。

 『聖なる怪物たち』を創作するにあたり、アクラム・カーンは国際的なアーティストを集結させ、東洋と西洋の知識を融合させた。

 インド出身のガウリ・シャルマ・トリパティは、アクラム・カーンの伝統的なカタック・ソロを振り付けた。台湾出身の振付家、林懐民(クラウド・ゲイト舞踊団芸術監督)は、シルヴィ・ギエムのためのソロ「サリー」を振り付けた。そこで彼女はアジア的なアプローチで完璧さに挑み、自分の脆さのなかにある力強さを発見した。スロヴァキア出身のダンサー、ニコレタ・ラファエリソヴァは、シルヴィ・ギエムのアンダースタディを務めただけでなく、本作の創作の重要な担い手の一人である。イギリス出身の作曲家フィリップ・シェパードは多才な多国籍ミュージシャンを率いた。そのメンバーは、ジュリエット・ダエプセッテ(ベルギー)、コールド・リンケ(ドイツ)、ファヘーム・マザール(パキスタン)、アリーズ・スルイター(オーストラリア)である。

「この作品は、シルヴィの肖像画だ。繊細な子供であるのと同時に、自分の運命を自分で切り拓く戦士としての彼女が写し出されている」

林懐民

 舞台空間は、日本出身の装置デザイナー、針生康と衣装デザイナー、伊藤景、フィンランド出身の照明デザイナー、ミッキ・クントゥのコラボレーションによって創作された。

 『ゼロ度 zero degrees』のダイアログを担当した私は、本作で再び、アクラム・カーンとダンス界のもう一人のエトワールの対話を手がけた。舞台が自分を表現する唯一無二の「聖なる」「怪物的」な場所であるという信念をさらに強固にする機会となった。

2006年5月 ガイ・クールズ

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