シカゴ交響楽団の歴史
Photo: Todd Rosenberg

創立から126回のシーズンを数えたシカゴ交響楽団(CSO)は、現在、世界で最も優れたオーケストラの一つと認められている。2010年には、現代最高の指揮者の一人であるリッカルド・ムーティを音楽監督に迎えた。彼はオーケストラとともに、シカゴのコミュニティとの関わりを深め、次代の音楽家たちを育み、新しい世代のアーティストたちと協力しあうことを目指している。

シカゴ交響楽団は1891年にシカゴのビジネスマン、チャールズ・ノーマン・フェイ氏によって創立された。1893年のコロンビア博を前にして、シカゴがどのような都市であるべきかを考えていたフェイは、シカゴ市にオーケストラがなかったことから、49人のシカゴのビジネスリーダーを集めてCSOアソシエーションを設立、そして指揮者セオドア・トーマスを初代音楽監督として迎えた。

初の演奏会は1891年10月、当時のオーケストラの名称は「シカゴ管弦楽団」(Chicago Orchestra)だった。トーマスは、この最初のコンサートから、高い技術を恒久的にもつオーケストラを目指していることを示し、以後1905年に亡くなるまで、CSOの音楽監督を務めた。オーケストラの本拠地となるダニエル・バーナム設計によるホールが完成したのは、トーマスの死から3週間後のことだった。

1895年にトーマスがヴィオラ奏者として迎えたフレデリック・ストックは、1899年には副指揮者となり、1905年には急逝したトーマスの後継者として第2代音楽監督に就いた。1905年から1942年まで、37年におよぶ在任は、CSOの歴代音楽監督のなかで最も長い。この間、ストックはダイナミックで革新的な成果を上げる。その一つに1919年のシカゴ・シヴィック・オーケストラの設立がある。これは、メジャー・オーケストラと提携した米国初のトレーニング・オーケストラの設立だった。また、青少年のためのオーディション制度を創設するほか、子どもたちのためのコンサート・シリーズや人気曲目によるコンサート・シリーズも開始した。

次の10年間は、3人の指揮者がオーケストラを率いた。1943年から1947年デジレ・ドゥフォー、1947年から1948年アルトゥール・ロジンスキー、1950年から1953年ラファエル・クーベリックである。

続く10年はフリッツ・ライナーの時代。ライナーの指揮により残された録音は、今なお、CSOの優れた名演として称賛される。彼はまた、1957年に、合唱指揮者として著名なマーガレット・ヒリスを招き、シカゴ交響楽団合唱団を創設した。

1963年からの5シーズンは、ジャン・マルティノンが音楽監督を務めた。

1969年から1991年、第8代音楽監督を務めたのはサー・ゲオルク・ショルティ。彼の就任によって、当時停滞気味にあったCSOは数年で立て直されただけでなく、数々の優れた録音を残し、さらに初の海外公演を成功させるなど、その貢献は大きい。なお、ショルティは退任後も桂冠指揮者として、1997年9月に亡くなるまで、毎シーズン数週間にわたってCSOの指揮台に立った。

1991年9月、ダニエル・バレンボイムが第9代音楽監督に就任。2006年6月まで務めた。1997年にはシンフォニーセンターがオープンし、彼はオペラの演奏会形式や、自身がピアニストと指揮者を兼ねるコンサートなど、多彩な演奏会をこなしたほか、21回もの海外ツアーを率いた。

2006/2007年のシーズンは、バレンボイムの後任が決まらないまま迎えることとなった。2006年から2010年、ベルナルド・ハイティンクがCSO史上初の首席指揮者、ピエール・ブーレーズが名誉指揮者を務める。ブーレーズは2016年1月に亡くなるまで、同ポストにあった。彼以外に首席客演指揮者となったのは二人しかいない。1950年代後半にCSOに定期的に出演し始めたカルロ・マリア・ジュリーニが1969年から1972年まで、クラウディオ・アッバードは1982年から1985年まで、務めた。

バレンボイム退任後、音楽監督不在のシーズンを重ねる中で、2007/2008年シーズンのオープニング・ガラおよび定期公演、ヨーロッパツアーなどの重要公演を託されたのはリッカルド・ムーティだった。こうした経緯を経た2008年に、2010年からリッカルド・ムーティが音楽監督に就任することが決定した。

1916年以降、録音はCSOの重要な活動となってきた。オーケストラのレコーディング・レーベルであるCSO Resoundのリリースには、グラミー賞を受賞したムーティ指揮によるヴェルディ作曲「レクイエム」が含まれている。

シカゴ交響楽団の歴史を飾る
輝かしき音楽監督たち

1981-1905

セオドア・トーマス
Theodore Thomas

アメリカで第一級の指揮者であり音楽のパイオニアとしても有名なセオドア・トーマスが、シカゴの実業家ノーマン・フェイに請われ、シカゴ交響楽団は創設された。1904年にシカゴ響の本拠地であるオーケストラ・ホールがオープンするが、その3週間後に13年にわたり音楽監督を務めたトーマスは、この世を去った。


1905-1942

フレデリック・ストック
Frédérick Stock

トーマスの後を受けて就任したフレデリック・ストックは、1895年にヴィオラ奏者としてキャリアを歩み始め、その4年後、副指揮者になった。その就任期間は歴代9人の中で最も長い37年におよんだ。ダイナミックで革新的なスタイルを確立したストックの任期中の1919年には、シカゴ・シビック・オーケストラが設立された。これは、大規模な交響楽団に付属した、アメリカ初のトレーニング・オーケストラで、ストックは若手音楽家のためにオーディション制度を設け、また特に子どものための定期演奏会を初めて開き、さらに一連のポピュラー・コンサートも始めた。


1943-1947

デジレ・ドゥフォー
Désiré Defauw

急逝したストックの後任は、当時が第二次大戦の最中であったこと、またドイツ人指揮者が国民的感情から避けられたことなどにより難航した。結局、ロンドン新交響楽団の指揮者でR. シュトラウスやラヴェルらの信頼が篤いことで知られていたベルギーのデジレ・ドゥフォーが就任する。ドゥフォーは、ウェーベルンの紹介や現代作品に積極的に取り組み、新しい時代をもたらした。


1947-1948

アルトゥール・ロジンスキー
Artur Rodziński

アルトゥール・ロジンスキーは、トスカニーニの信頼が篤かった。今日も語り草となるほどの質の高い演奏を引き出し、R. シュトラウスやワーグナー作品の名盤も残したが、楽員や経営サイドとの関係を良好に保つことができず、わずか1シーズンで辞任した。


1950-1953

ラファエル・クーベリック
Rafael Jeroným Kubelík

ロジンスキー辞任の後、フルトヴェングラーを迎える準備が進むが、在来ユダヤ系音楽家たちの猛烈な抗議により、オーケストラは断念を余儀なくされる。音楽監督不在の2年を経て、最終的に決定したのはチェコスロヴァキアのラファエル・クーベリックだった。36歳という若さでの就任は、シカゴ響を若返らせるという意味でも貢献した。


1953-1963

フリッツ・ライナー
Fritz Reiner

ハンガリー生まれのフリッツ・ライナーは、アメリカにおいてはすでににシンシナティ交響楽団、ピッツバーグ交響楽団を第一級のオーケストラに鍛えあげたことで高い評価を獲得していた。シカゴ響に就任したライナーは、メンバーを入れ替え、演奏水準の飛躍的向上をはかり、たちまちの内にアメリカ最高のオーケストラへと育てあげた。また、1957年に、合唱指揮者として著名だったマーガレット・ヒリスを招き、シカゴ交響楽団合唱団を創設したことも、ライナーの大きな功績である。


1963-1968

ジャン・マルティノン
Jean Martinon

リヨン生まれのジャン・マルティノンは、作曲家でもあり、フランス音楽や現代作品を積極的に取り上げた。これによりシカゴ響に、華麗な音色や優雅さといった新たな魅力が広がることとなった。


1969-1991

サー・ゲオルク・ショルティ
Sir Georg Solti

ハンガリー出身のサー・ゲオルク・ショルティが音楽監督に就任したことにより、最も優れたオーケストラ音楽が達成されたといえる。シカゴ響の初めての海外ツアーは、ショルティ指揮のもとで1971年に行われ、その後の欧州、日本、オーストラリアへのツアーによって、シカゴ響は世界でも有数のオーケストラとして確固たる名声を得た。


1991-2006

ダニエル・バレンボイム
Daniel Barenboim

創立100周年を機に、音楽監督から桂冠指揮者となったショルティの後任には、ダニエル・バレンボイムが就いた。モーツァルトのピアノ協奏曲の引き振りをはじめ、新機軸のプログラムでショルティとは異なるアプローチでオーケストラを牽引した。


2010-現在

リッカルド・ムーティ
Riccardo Muti

バレンボイム退任後、音楽監督不在のシーズンを重ねるなかで、2007/2008年シーズンのオープニング・ガラおよび定期公演、ヨーロッパ・ツアーなどがムーティに託されたことを経て、2010年シーズンより音楽監督に就任。