ロメオ・カステルッチの語る 新『タンホイザー』~エピソード2「弓と矢」

公演関連情報 2017年5月23日 14:56



 世界中のオペラファン、音楽ファンが注目するバイエルン国立歌劇場『タンホイザー』プレミエ、5月21日にその歴史的な舞台の幕があきました。



LM0A2912.jpgバイエルン国立歌劇場 『タンホイザー』より



 cas1.jpg
写真右:ロメオ・カステルッチ(演出)


 公演の様子は公式ホームページでも改めてご紹介いたしますが、その前にロメオ・カステルッチの語る『タンホイザー』、演出コンセプト第2弾の映像をおとどけします。エピソード2では「弓と矢」がキーワードです。ぜひご覧ください!

 
cas2.jpgリハーサル風景より
© Bayerische Staatsoper Wilfried Hösl



(翻訳)
ロメオ・カステルッチの新演出におけるシンボル ~ エピソード2 「弓と矢」

弓と矢のイメージは台本から直接来ています。
ヴェーヌスベルクの前奏曲ではキューピッドがもつような矢がたくさん出てきます。
ワーグナーのヴェーヌスベルクの世界では、矢は愛を象徴すると同時に、矢が創る傷も象徴しています。
第1幕の後の方で、領主ヘルマンと騎士たちがハンター狩人として登場します。
すると矢が再び現れます。面白いことに、タンホイザーはいつも被害者です。
タンホイザーは常に追われるのです。まるで動物のように、獲物のように。
彼はヴェーヌスの世界(ヴェーヌスベルク)で捕らえられ、領主の世界(ヴァルトブルク)でも捕らえられる。
そしてタンホイザーはこれらの罠から逃れようとするのです。
対照的に、弓はハープを意味する部分があります。
音楽に詳しい考古学者たちは、弓というのは楽器の原始的な形を示していると言います。
弓はタンホイザーのハープを意味しているのかもしれません。
そして間違いなく、弓は、時を象徴しています。
つまり、タンホイザーとエリーザベトの物語は時というテーマと関係していると言えるでしょう。
二人は現世を超越した異次元でしか会うことはできないのです。





ロメオ・カステルッチの語る 新『タンホイザー』~エピソード1「金の円盤」

インタビュー・レポート 2017年5月19日 20:02



 いよいよ『タンホイザー』の初日まであと2日!
 バイエルン国立歌劇場では本番直前まで入念なリハーサルが行われており、連日のように現地ではニュースに取り上げられています。今回のプレミエが劇場にとっていかに大きな挑戦であるか、ミュンヘンの人々ならず、世界中のオペラファン、音楽ファンが注目している中、いよいよそのヴェールがはがされようとしています。

 
Probenfotos Tannhäuser 2017 c) W. Hösl LM0A9959.jpg
左からクラウス・フロリアン・フォークト(タンホイザー役)、ロメオ・カステルッチ(演出)


 NBSのスタッフも5/18(木)に現地入り。リハーサルにお邪魔しましたが、マエストロ・ペトレンコとバイエルン国立歌劇場のオーケストラの紡ぎだす圧倒的な音色に完全にノックアウトされた様子。もちろん主役のフォークトをはじめ絶好調の歌手陣にも期待が高まるばかりです。

 
9C2A8207 © Bayerische Staatsoper Wilfried Hösl.jpg
© Bayerische Staatsoper Wilfried Hösl


そんな本番直前のさなか、演出を担当するロメオ・カステルッチが演出コンセプトを語るメッセージ映像が届きました!
今日から4回に分けてご紹介してまいります。初回は「金の円盤」をキーワードに語っています。ぜひご覧ください!



(翻訳)
ロメオ・カステルッチの新演出におけるシンボル ~ エピソード1 「金のディスク(円盤)」

円というのは、もっとも根源的な形状と言えるでしょう。
円は、目を意味し、盲点を意味し、そして何かが目の中に貫通するポイントを意味しています。
円はしばしばイメージのシンボルとして登場するとも言えるでしょう。
つまりもっとも純粋なイメージとも言えます。
円盤、金の円盤は、太陽の象徴でもあります。
突然に辺りを照らす太陽。
そして、タンホイザーは、その突然の明かりによって啓蒙され動かされるのです。
タンホイザーは、光をみるたびに聖母マリア、ヴェーヌス、エリーザベトの名前を思い起こします。いつも女性の名前を。
そしてそうした名前は、彼の中に稲妻のような効果をもたらします。
それはほとんど仏教とも言えるでしょう。再解釈された仏教。
金の円盤はつまり、タンホイザーの意識を突き抜ける光の筋を意味しているのです。



もっと楽しく! オペラへの招待 [4] ~オペラは見たままに理解する

2017年5月 9日 17:00

音楽ジャーナリストの飯尾洋一さんによる、大好評の連載コラム第4弾!今回はオペラを「観る」という原点に立ち返り、改めてオペラの楽しみ方を提案してくださいました。ぜひご一読ください。



オペラは見たままに理解する

飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)



ba.jpg



 オペラにつきまとう「居心地の悪さ」には、ずっと悩まされてきた。えっ、なんのこと? そんなの、はなから気にならないよ、という方はいい。でも自分はそうじゃなかった。

 オペラの音楽に対しては全幅の信頼が置ける。大作曲家たち渾身の名曲がそろっている。しかし、問題はストーリーだ。

 いろんなことが気になる。話の展開が唐突すぎてストーリーに付いていけないとか、若い男女のラブストーリーのはずなのになぜ年配の歌手が歌っているのかとか、実は血縁だったという人間関係が多すぎるとか、登場人物の変装がバレなさすぎてシャーロック・ホームズ級の変装の達人ばかりなのはなぜなのかとか、結末で登場人物が絶望のあまり死ぬみたいな不審死は医学的にどういう説明が可能なのかとか、宿敵の赤ん坊とわが子をまちがえて火にくべてしまうなんてことがありうるのか、とか。
 なんだか高級な音楽に珍妙な感じのストーリーがくっついているんだけど、これってどう扱えばいいんすかね。

 この問題に以前はこんなふうに対処していた。オペラっていうのはそういう「お約束」に支えられた伝統芸能なんだから、ストーリーは添え物でいい。主役は音楽なんだし。

 でも、最近、それは違うんじゃないかなと思うようになった。オペラのストーリーは添え物などではないのでは? 一見、不合理なことも、本当は筋が通っているんじゃないか。
 ひょっとして、オペラは目にしたままに理解すればいいんじゃないの、と。

 たとえばこんな感じだ。リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」で牢獄に囚われていたヨカナーンが姿を見せたとき、ヨカナーンの恰幅がやたらとよかったとしたらどう解釈するか。以前なら「いったいこの人は地下牢でどんな豪勢な食事を食べてたんだよっ!」と思わず心の中で静かに突っ込むところであったが、そうではなく、これを見たままに理解する。ヨカナーンの体格がよいのは彼が真の権力を手にしているということを暗に示しているのだ、と。そう解釈すると話が腑に落ちる。同様の作戦はベートーヴェンの「フィデリオ」で幽閉されていた囚人たちがそろってふくよかだったというケースにも適用可能だ。

 10代の役柄をベテラン歌手が歌うのは、歌唱や配役上の都合などではなく、登場人物の精神が肉体に比べて格段に成熟していることを示唆しているから。「コジ・ファン・トゥッテ」や「フィガロの結婚」で変装が相手にバレないのは、「本当はバレているけど互いにバレていないふりをする大人のゲームがくりひろげられている」から。

 そんなふうに「オペラを目にしたままに理解する」と、オペラは一気に真に迫ってくる。どんな作品に対してもこれがうまくいくとまでは言いません。でも、うまくいけば舞台が格段におもしろくなる。
 オペラは案外居心地が悪くない。


 
baee.jpg


もっと楽しく! オペラへの招待 [3] ~『タンホイザー』、社会に抑圧された若者の物語

インタビュー・レポート 2017年5月 6日 11:02





いよいよバイエルン国立歌劇場『タンホイザー』のプレミエまであと15日!日本公演まであと4か月です。音楽ジャーナリストの飯尾洋一さんによる、大好評の連載コラム第三弾をお届けいたします。




『タンホイザー』、社会に抑圧された若者の物語

飯尾洋一(音楽ジャーナリスト)







pet.jpg

キリル・ペトレンコ(バイエルン国立歌劇場音楽総監督 / 『タンホイザー』指揮)




 今回のバイエルン国立歌劇場来日公演で上演される演目はワーグナーの『タンホイザー』とモーツァルトの『魔笛』。たまたまだろうが、この両作にはうっすらと共通項も感じる。ストーリーの前半と後半とで微妙にタッチが異なるところや、教義や儀式の物語である点が、少し似ている。


 おそらく、『タンホイザー』はワーグナーのオペラのなかではもっともフレンドリーな作品といえるのではないだろうか。ワーグナーのオペラに接する際に必要なのは、まずは気合い。『パルジファル』とか『神々の黄昏』とか『ニュルンベルクのマイスタージンガー』などの長大な作品の場合、自分は滝に打たれる気分で劇場に向かう。なにせ、これらの作品は長い。お尻が痛くなるくらい長い。でも、音楽は最高にすばらしい。心はいつまでもこの音楽に浸っていたいと願う一方、体が悲鳴を上げるのがワーグナー。たとえるならチャンピオンズリーグの試合に出場するサッカー選手くらいの気合で、万全のコンディションを整えて劇場に向かわなければ作品に太刀打ちできない。


 その点、『タンホイザー』の上演時間は正味3時間と少しくらいの長さで、まだ救いがある。音楽的にもストーリー的にも比較的明快。それでもワーグナーである以上、圧倒的な音楽体験をもたらすという意味で滝行にはちがいないのだが、『パルジファル』が真冬に高さ20メートルくらいの大滝に打たれるのだとすれば、『タンホイザー』は真夏に水浴びも兼ねてリフレッシュするカジュアル滝行くらいのイメージだ(想像だけど)。


 『タンホイザー』はストーリーもおもしろい(以下ストーリーの核心に触れるのでネタバレあり。そんな注意が古典的オペラに必要かどうかはともかく)。騎士タンホイザーは禁断の地ヴェーヌスベルクで愛欲の女神ヴェーヌスの虜となっている。ビバ快楽。しかし人間、快楽だけの日々にはいつまでも浸っていられないもの。タンホイザーは清らかな乙女エリーザベトが待つ人間界へと帰ってくる。


 ところが、せっかく帰ってみると、人間の世界もいいことばかりじゃない。最初は帰還を喜んでくれたヴォルフラムら騎士仲間たちも、タンホイザーがうっかり「うひょっ!ヴェーヌス最高~」と口を滑らせたばかりに、彼を罪人扱いする始末。唯一、味方してくれたエリーザベトのとりなしによって、タンホイザーはローマ教皇に赦しを請うべく、巡礼の旅に出る。しかし教皇はタンホイザーを赦してくれない。
「この手にある杖に緑の葉が生い茂らない限り、お前が救われることはない」
 なんという無理ゲー。杖に緑の葉っぱなど生えるわけがなかろう。自暴自棄になったタンホイザーは、ヴェーヌスのもとへと帰ろうとするが、エリーザベトが自らの命を犠牲にして天に祈りを届ける。タンホイザーも絶命するが、教皇の杖に緑の葉が芽吹く。タンホイザーの魂は救済されたのだ......。


 このオペラは自分のなかでは「ダメ男もの」に分類されている。ひとりの男がふたりのステキな女性の間でふらふらするというのは、(オペラに限らず)ダメ男ものの黄金パターン。ヴェーヌスいいなあ、でもエリーザベトもいいなあ、でもやっぱりヴェーヌスのところに帰ろう、と主人公がふらふらする。そう書いてみると、ビゼーの『カルメン』とも似ている。カルメンとミカエラの間で揺れるドン・ホセみたいな男がタンホイザー。


 見逃せないのは、タンホイザーは「モテる」ということだ。ヴェーヌスにも求められ、エリーザベトにも愛される。タンホイザーには選択肢がある。ひるがえって、ヴォルフラムら騎士仲間ときたらどうだろうか。ヴェーヌスにもエリーザベトにも相手にされないモテない男たちは、タンホイザーを責めることしかできない。言ってることは立派なのだが、さっぱり共感を呼ばないタイプの男たちである。それって、親切心に見せかけたタンホイザーへの嫉妬なんじゃないの?


 好き勝手に愛欲の女神と聖女の間を自由に往来する型破りな新世代騎士になってたかもしれないタンホイザーが、周囲に咎められて悔い改めることになったばかりに、エリーザベトともども命を落とすことになってしまった。「救済なんかより現世が大事だよっ!」という視点で見れば、社会に抑圧された若者の物語として、タンホイザーに共感を寄せることも可能なんじゃないだろうか。


 『タンホイザー』は、序曲がコンサートでもしばしば単独で演奏される人気曲となっている点も心強い。というのも、この入念な序曲は本編に対する音楽的な予習機能を持っている。冒頭の厳かな主題は本編で巡礼の合唱として登場する。中間部で奏でられる妖しくにぎやかな音楽は愛欲の女神ヴェーヌスへの賛歌。とても楽しそうである。しかし、ふたたび巡礼の合唱が返ってきて、雄大なクライマックスを築いて荘厳なムードで序曲を閉じる。どうやら快楽は退けられて、聖なるものが勝利を収めるのであろうという結末が早くも音楽のみから予感される。ふたつの対立する世界が音楽の性格によって雄弁に描き分けられているのも、『タンホイザー』の親しみやすいところだろう。


vokt.jpg

クラウス・フロリアン・フォークト(『タンホイザー』タンホイザー役)





【バイエルン国立歌劇場】指揮者アッシャー・フィッシュ インタビュー[2]

インタビュー・レポート 2017年4月15日 12:20



バイエルン国立歌劇場日本公演で『魔笛』の指揮をとるアッシャー・フィッシュ。
この3月、新日本フィルの演奏会のために来日したマエストロにお話をうかがいました。
インタビュー第二弾をおとどけします。



★指揮者フィッシュの目~「『魔笛』にはモーツァルトの気持ちが見えます」



無題.jpg



 指揮者でもありピアニストでもあるマエストロ・フィッシュは、指揮を手がける多くの作曲家のなかでもモーツァルトは特別な存在なのだとか。モーツァルト自身を『魔笛』の登場人物で考えるならパパゲーノ的なキャラクターだったのではないか、と分析。


 「ただ、モーツァルト自身はヒューマニストでもあったので、ザラストロのような人格者の重要性も理解していたのでしょう。ザラストロを好ましい人物にしようとしていることは音楽自体が描いている・・・モーツァルトの気持ちが見えます。」


 指揮者ならではの感性は演出を通したなかにもうかがわれます。


「エヴァーディングは、パミーナ、タミーノ、ザラストロの三重唱<私たちは、もう会えないのですか>(第19曲)を、第2幕の冒頭に移しています。これは音楽的な要素ではなく、ストーリー的に考えられたもので、私もこの方が良いと思っています。モーツァルトがなぜ、19番目にしたのかがわからないくらい(笑)。第19曲の三重唱は、『魔笛』のなかでも一番好きな曲かもしれません。なんともいえない気持ちになって・・ワクワクするんです。」


 "天才的な仕事がされた作品"と惚れ込む『魔笛』、これまでの共演経験をもとに日本公演のキャスティングにも関わったとのこと。歌手たちの魅力を紹介していただきました。


 「ザラストロ役のマッティ・サルミネン! これはもう涙が出るほど嬉しいことです。彼は私に最も影響を与えてくれたバス歌手なんです。つい先日亡くなったクルト・モルとサルミネンの二人は、私にとっては何よりも素晴らしいバス歌手です。経験を重ねたベテラン歌手がステージに立つということは、すごく安心感をもたらすものなんです。サルミネンは別格ですね。彼の場合は、もしかしたらこれで引退ということもあるかもしれないし、特別感はあると思います。
 タミーノ役のダニエル・ベーレは、素晴らしいテノール! フリッツ・ヴンダーリヒ(注1)のような声といわれるベーレの声は、ヴンダーリヒ同様にタミーノにとても合っています。
 パミーナ役のハンナ=エリザベス・ミュラーとは、デビューしたころから知っていて、もう何度も共演しているのですが、共演するたびに大きく成長していることを感じさせられました。素晴らしい声です。
 パパゲーノ役のミヒャエル・ナジは、まさしくグレート・シンガーです。パパゲーノには歌うだけではなく、演技力も要求されますが、彼はとても面白いし声量もとてもあります。今後はもっと大きな役も歌っていくことになるはずです。」
 
 作曲家、演出家、そして歌手たち、すべてに深い愛情を注ぎ込むマエストロのタクトのもと上演される歴史的名プロダクション『魔笛』に、期待が膨らみます。


(取材・文/吉羽尋子)


無題1.jpg


(注1)フリッツ・ヴンダーリヒ...1930年生まれのドイツのテノール。2オクターヴを超える声域と輝くような澄んだ声で20世紀最大のテノール・リリコと目されている。故パヴァロッティが歴史上もっとも傑出したテノールとして名を挙げている。



★バイエルン国立歌劇場2017年日本公演 公演の詳細はコチラ>>>



ページトップへ