新『起承転々』〜漂流篇VOL.13 胸騒ぎのオペラ

胸騒ぎのオペラ

 今年も桜の季節がめぐってきた。日本人には桜好きが多いが、私もご多分にもれず、桜が咲くと血が騒ぎ出す。そして、桜を見ながら口をついて出るのが「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」という唐代の詩人于武陵の五言絶句を井伏鱒二が訳した言葉だ。桜を見ると、「ああ、また1年経ったか。あと何回満開の桜を見られるだろう」と感傷的な気分になる。西行法師も「わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春にあふべき」と詠んでいる。老いた桜の木にも風情があり、あと何度の春にめぐりあえるだろうか、と自らの老いを重ねている。
 今秋来日するローマ歌劇場の入場券の売出しが始まったが、ある高齢のオペラ会員から、「あと何回オペラの引越し公演を観られるかわからない」と言われて、胸が詰まった。桜が咲くのを待っている人がいるように、どうやら年に一度のNBSのオペラ引越し公演を楽しみに待っている人が多いらしいのだ。オペラ鑑賞を生きがいにしている人がいると思うと、なんとか引越し公演を続けなければならないと、あらためて思う。
 桜なら誰でも気軽に見られるが、オペラは入場料があるから、誰もが簡単に楽しめるというものでもない。とくにオペラの引っ越し公演は入場料が高いのが、なかなか人を寄せ付けない要因になっている。バレエ公演と比較してオペラ公演は年々少なくなってきているように感じていたが、友人のオペラ評論家は、オペラの公演数は増えているし、観客も増えていると言う。演奏会形式のオペラが増えているからと聞いて合点がいった。たしかに国内のオーケストラが、定期公演などでオペラを取り上げることが増えている。しかも、日本ではなかなか上演されることが少ないオペラを上演すると、その希少価値でお客が集まるらしいのだ。国内のオーケストラ、合唱団、それに日本人のソリストで上演すれば、入場料は安く抑えられる。オペラの引っ越し公演とは比べものにならない。オペラ評論家の友人は言う。オペラの醍醐味は総合芸術であるからであって、演出や舞台美術、衣裳、照明がつくから、感動が何倍にもなる。演出の面白さ、舞台美術の美しさに感性を刺激されるのが、オペラの魅力なのだと。演奏会形式のオペラでは、せっかくのオペラがその魅力の一部しか享受できないのはもったいないと言う。その友人は外来オペラでもドサ回り用のペラペラな舞台装置で、出演者も減らして上演するようなオペラにも批判的だ。
 この秋来日するローマ歌劇場の公演は、まさにオペラが総合芸術であり、さまざまな才能が火花を散らして創られるものであることを、如実に示すことになるだろう。今回は『椿姫』と『マノン・レスコー』の2本のオペラを上演するが、『椿姫』の演出は売れっ子女流映画監督のソフィア・コッポラ、衣裳はイタリアのファッション界の重鎮、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ、美術は「ダークナイト」や「バットマン ビギンズ」などハリウッド映画で数々の大作を手がけているネイサン・クロウリー、『マノン・レスコー』は、巨匠指揮者のリッカルド・ムーティの愛娘であり、女優としても、すでに演出家としても評価されているキアラ・ムーティが演出するのが話題。演奏会形式のオペラではけっして味わえない魅力満載だ。むろん、音楽陣は実力派揃い。『椿姫』でヴィオレッタを歌うフランチェスカ・ドット、『マノン・レスコー』でマノンを歌うクリスティーネ・オポライスは、海外での活躍が喧伝されているが、今回がオペラ・ファン待望の初来日になる。
 オペラの楽しみ方はさまざまで、入口はたくさんあったほうがいいと思うが、本物のオペラを知らずに、「木を見て森を見ず」状態であっても困る。桜の花の美しさを語るには、絢爛豪華な満開の桜を見ずしては語れないだろう。たとえて言えば、演奏会形式のオペラは三部咲きの桜だ。三部咲きも初々しさや若さがあって、それなりの魅力はあるが、満開の桜には敵わない。満開の桜にはなぜか胸騒ぎを覚えるが、オペラは満開の桜に似ている。客席に座って、舞台上で展開するオペラに向き合うと、舞台から押し寄せてくるエネルギーで血が騒ぎ出す。それゆえ、総合芸術であるオペラの美しさを丸ごと味わってほしいのだ。今度、ローマ歌劇場がもってくる『椿姫』も『マノン・レスコー』も、名作小説を原作にしたポピュラーなオペラだから、誰にとっても入り込みやすいだろう。
 ソメイヨシノには寿命60年説があるらしいが、切り倒すのは忍びないと、「若返り剪定」と称する寿命を延ばす試みが行われていると聞く。じつは私の家の前は桜並木なのだが、今年に入って老木を剪定したり、若い木に植え替えたりしている。海外の歌劇場の訪日公演の歴史は、1963年の日生劇場の杮落としでベルリン・ドイツ・オペラが公演したことに端を発するが、かれこれ55年が経つ。桜は日本文化の象徴になっているが、オペラの引越公演も、すでに日本の文化の一つになっているのではないかと思う。桜の老木をいたわるように、次の時代のことを考え、オペラにも「若返り剪定」が必要な時期が来ているのかもしれない。