新『起承転々』〜漂流篇VOL.26 われらが人生の歓び

われらが人生の歓び

 元号が「令和」に変わって、気持ちも世の中の空気も少し変化したような気がする。平成の時代は大きな災害や経済の低迷、社会の分断が目立ったので、元号が変わることでリセットされ、これを機に大きく変わって欲しいとの期待があるのだろう。新しい天皇に代わって令和元年は「ロイヤル・イヤー」だ。10月22日には即位礼正殿の儀があるが、この儀式は諸外国における戴冠式にあたるという。今年9月から11月までラグビーのワールドカップがあり、来年夏には東京オリンピック・パラリンピックがあるから、今年9月のワールドカップから来年9月にパラリンピックが終るまでの1年間、令和元年、令和2年はわが国の歴史上でも特筆される年になるに違いない。
 NBSにとっても令和元年は「ロイヤル・イヤー」だ。こじつけのようだが、NBSは6月に英国ロイヤル・バレエ団、9月に英国ロイヤル・オペラを招聘し日本公演を行うからだ。以前、この欄でも取り上げたことがあるが、英国ロイヤル・オペラハウスは新しい取り組みに積極的で、野外でのパブリック・ビューイングやユーチューブでのライブ配信を行い、いま世界でもっとも勢いがあるオペラハウスと言われている。
 4月9日の朝日新聞朝刊で「CD低迷でもJASRAC好調 なぜ?」という記事を見つけた。日本著作権協会(JASRAC)が昨年に徴収した著作権料が1,138億円に上がり、史上2位となる見通しらしい。CDが売れない時代に、なぜ儲かるのかを解説している。「押し上げたのはユーチューブなどの動画サイトとスポティファイなどの音楽配信サービス。こうしたネット関連の徴収額は約184億円と徴収額全体の16%を占め、前年度より42億円の増加となった。さらに、好調のライブやコンサートからの収入も伸びをみせた」とある。
 私のような世代の人間にとっては、レコードからCDになったときも一大転換だと感じたが、音楽配信は異次元的な大転換だ。音楽配信サービスの発達により音楽業界が活性化しているというが、大半はポピュラーのジャンルだ。たしかにポピュラー系のライブ公演の数も観客も増えていると聞く。ポピュラー系の音楽が増えているのだから、クラシックも増えて当然ではないかと思うのだが、現場にいるものとしてあまりその実感はない。音楽配信や映像のストリーミングが、ファンの間口を広げる役割を果たし、それがきっかけで生の舞台を観に来てくれる人が増えることを願うばかりだ。ここでクラシックの価値が見直されてほしいのだ。なぜクラシックが時代を超え、国を跨いで支持されてきたか。そもそもクラシックの意味するところは「古典」というだけではなく、言葉の第一義は「最高級」ということだ。「最高級」だからこそ時代を超えて生き残って「古典」になり、「最高級」であるがゆえにユニバーサルたり得るのだろう。「最高級」のクラシックのなかでも、「最高」はやはり総合芸術であるオペラだと私は思っている。
 去る2月24日に永眠した日本文学研究者であり文芸評論家のドナルド・キーン氏の『ドナルド・キーンのオペラへようこそ!われらが人生の歓び』という本が、最近、文藝春秋社から上梓された。さっそく手に入れて一気に読んだ。キーン先生のお姿はオペラの公演会場で何度かお見かけし、ご挨拶をさせていただいたこともあったが、キーン先生がここまで熱烈なオペラ好きだとは思いもしなかった。「オペラは一生のものです。同じオペラを何回観ても、いつも新しい発見と感動があります。それが本物の芸術の証だと思います。オペラは文学の一種であり、文化でもあります。19世紀は、オペラハウスをもつことが、国の一番の誇りでした。考えてみると、もっとも世界的な芸術はオペラでしょう」と書かれている。キーン先生の養子のキーン誠己氏によると、父は「日本国籍を取得して日本に住むようになってから一番残念なことはメトに行けないこと」と公言してはばからなかったという。
 今年の9月はロンドンからロイヤル・オペラの公演が引っ越してくる。日本に居ながらにして、ロイヤル・オペラの公演が観られるという希少な機会だ。はからずも今年は「UK in Japan 2019ー20」と銘打った日英交流年であり、「ロイヤル・イヤー」でもある。ロイヤル・オペラの今回の引越公演では、シェイクスピアの原作をもとにヴェルディが作曲した『オテロ』が目玉だ。指揮者のアントニオ・パッパーノはイタリア系のイギリス人、演出はイギリス人のキース・ウォーナー。イタリアの血とイギリスの血の幸福な結婚。『オテロ』こそ、いまもっとも充実しているロイヤル・オペラで、パッパーノが一番に取り上げたかったオペラなのだ。知の巨人、キーン先生がのたまう「われらが人生の歓び」がオペラにあるならば、この『オテロ』を体験して、一人でも多くの人に人生の歓びを噛みしめてもらいたい。