新『起承転々』〜漂流篇VOL.27 ヨンダーリング

ヨンダーリング

 8万3千人が訪れた〈上野の森バレエホリデイ〉をなんとか無事に終え、いま東京バレエ団はヨーロッパ公演に向けて準備に追われている。今年東京バレエ団は創立55周年だが、東京バレエ団の母体はチャイコフスキー記念東京バレエ学校で、それから数えると来年が60年目ということになる。今年から来年にかけては、東京バレエ団にとって大きな節目だと思っている。東京バレエ団と前身のチャイコフスキー記念東京バレエ学校の関係を知る人も少なくなっている。同校は開校して4年で経済的な破綻から閉校に追い込まれてしまったが、同校の創立者のイデオロギー的な背景もあって、これまでわが国のバレエ史上あまり正しく評価されてこなかったように思う。東京バレエ団は今年の12月に『くるみ割り人形』の新制作に取り組むが、『くるみ割り人形』は同校が開校2年目にはじめて上演した演目だった。その公演に合わせて、斎藤慶子著の『チャイコフスキー記念東京バレエ学校』(仮題)が文藝春秋社から出版される予定だが、これを機に同校が果たした役割が再評価されることを願っている。
 同校が開校するにあたって、当時の優秀な人材が門を叩いた。旧ソ連から派遣された第一級の指導者、スラミフィ・メッセレル、アレクセイ・ワルラーモフの情熱的な指導のおかげで、後に日本のバレエ界を引っ張っていくような優秀な人材を数多く輩出した。閉校した同校の人的財産を引き継ぐかたちで東京バレエ団を創立したのが佐々木忠次だ。一時期、バレエ学校としての活動が途絶えたものの、近年は東京バレエ団附属のバレエ学校の活動と、バレエ団の活動が連動する組織になりつつある。
 チャイコフスキー記念東京バレエ学校の開校60周年記念事業の一環として企画していることがある。当代随一のバレエ界の巨匠ジョン・ノイマイヤー振付の『ヨンダーリング』を上演することだ。このバレエはノイマイヤーがカナダ・ナショナル・バレエ学校からの依頼により創ったバレエ学校の生徒たちのための作品だ。『ヨンダーリング』というバレエのタイトルは、「境界を越える行為。冒険へ、未知の彼方へと旅立つ行為を意味するアメリカの古い言い回しに由来する」とノイマイヤーはいう。バリトンのトーマス・ハンプソンが歌うスティーヴン・フォスターによる西部アメリカの民謡に振付けられている。バレエ学校の生徒たちのきらめくような若さが発散する素敵な作品だ。かつてこの作品の一部がローザンヌ・バレエコンクールの課題曲になっていたので、バレエ関係者にはなじみのある作品だろう。出演者は東京バレエ学校の生徒のみならず、日本全国から優秀な生徒たちの参加を呼びかけたいと思っている。ノイマイヤーが今夏7月末に来日し、出演者のオーディションを行う。ハンブルクから教師が派遣され、その合格者を通常の学校が休みの時期に1年間かけて指導し、来年8月にノイマイヤーが来日して仕上げをする。そして本番。巨匠に直接指導してもらえる千載一遇のチャンスだ。プロをめざす生徒たちにとっては、何ものにも代えがたい素晴らしい経験になるのではないか。
 日本のバレエ学校の生徒たちを取り巻く状況も、時代とともに大きく変わってきている。かつては単純にローザンヌのような国際バレエコンクールを受けることが目標になっていたが、ここ数年、国際コンクールは海外のバレエ団やバレエ学校に入るための“就活”の場になっていた。いまはさらに多様化して、優秀な人材はコンクールを経ず、直接、希望するバレエ団に入ることができるようにもなっているようだ。中・高校生くらいの年齢の将来プロをめざすダンサーたちが、どんどん海外に出て行っていることから、国内におけるその世代が“空洞化”している。一方で、海外に出て行ったにしても、なかなか契約してもらえるバレエ団がなく、また日本に戻ってくるダンサーも多いようだ。日本のバレエは“お稽古事文化”で底辺が広く、結果、プロをめざすダンサーを多く生み出してているが、国内での受け皿が十分にないことが、才能が海外に流出する一因になっている。海外の国公立のバレエ団と比べ、国内のバレエ団はダンサーの待遇面など受け入れ態勢が整っていないのは歴然だ。われわれが目指さなければならないことは、はっきりしている。待遇面などダンサーを取り巻く状況を海外の一流バレエ団並みに少しでも近づけることしかない。財政的な基盤を固めて組織を強化し、優秀なダンサーを受け入れて、国内に名実ともに世界の一流バレエ団を凌駕する団体をつくることが、われわれが目指さなければならない本筋ではないかと私は考えている。道は遠くても、東京バレエ団と附属の東京バレエ学校は、それを目指している。
 チャイコフスキー記念東京バレエ学校には当時の優秀な生徒たちが日本全国から集まり、ロシアの正統的なバレエ教育を身につけたことによって、今日の日本のバレエの礎が築かれた部分が大きい。日本のバレエの新しい時代を切り開くために、59年前の同校がそうであったように、この『ヨンダーリング』上演をきっかけに、日本のバレエ界の将来を担う若い優秀な人材が結集してほしいと願っている。この『ヨンダーリング』に参加することで、ヨンダーリングの字義どおり、若者たちに「未知の彼方へ旅立つ」チャンスを掴んでもらいたい。