マレク・ヤノフスキ

Marek Janowski
『ナクソス島のアリアドネ』指揮

Photo:Felix Broed

1939年ワルシャワ生まれ。幼い頃に母の祖国ドイツに移る。ケルンの音楽大学でヴァイオリン、ピアノ、指揮を学んだ。

アーヘン、ケルン、デュッセルドルフ、ハンブルクで研鑽を積み、1973年から75年にはフライブルクで、1975年から79年にはドルトムントの歌劇場で音楽総監督に就いた。ドルトムントでの活動の一方、ヨーロッパの数々の歌劇場に招かれた。1970年代後半以降、メトロポリタン歌劇場、バイエルン国立歌劇場、シカゴ、サンフランシスコ、ハンブルク、ウィーン、ベルリン、パリなど、世界中の著名な歌劇場のなかで、ヤノフスキが客演していない劇場はないほどだ。

1990年代になると、主にドイツの交響曲のレパートリーに集中するために、自らの意志により、オペラ指揮から離れる。

1984年より2000年までフランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団音楽監督、1986年から1990年にはケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の首席指揮者、1997年から1999年にはベルリン・ドイツ交響楽団の第一客演指揮者を務めた。2000年から05年モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督、2001年から03年にはドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を兼任した。

2002年にベルリン放送交響楽団の芸術監督に就任、同オーケストラのアンサンブルを世界レベルへと引き上げた。ヤノフスキは、ドイツ系指揮者の伝統を踏襲する最高の音楽家の一人と認められおり、ワーグナー、R.シュトラウス、ブルックナー、ブラームス、ヒンデミット、そして新ウィーン楽派の作曲家たちの作品における解釈は、多くの演奏や録音などから高く評価されている。

ヤノフスキが歌劇場での指揮から遠ざかったのは、音楽的な理由ではない。ベルリン放送交響楽団では2010年から13年にかけて、ワーグナーの主要なオペラ10作品を網羅したシリーズ公演の開催や、日本でも2014年より4年にわたる「東京・春・音楽祭」での《ニーベルングの指環》(演奏会形式)の指揮を務めている。ヤノフスキは、近年のインタビューで「時々、ワーグナーやR.シュトラウス、モーツァルト作品、あるいはプッチーニのオペラを振る機会がないのを寂しく思うことがある」と語っているが、2016年と17年にバイロイト音楽祭で《ニーベルングの指環》の指揮に当たること、そして今秋のウィーン国立歌劇場日本公演で『ナクソス島のアリアドネ』を振ることは、ヤノフスキ自身の思いの高まりが表出されるとともに、聴衆にとっても大きな期待が寄せられるものとなる。

ウィーン国立歌劇場の記録によると、同歌劇場のオペラ指揮は、1991年4月の『サロメ』(ボレスラフ・バーロク演出)以来のこととなる。

アダム・フィッシャー

Ádám Fischer
『ワルキューレ』指揮

Photo:Michael Poehn

1949年ブタペスト生まれ。バルトーク音楽院およびウィーン音楽大学で学ぶ。

1973年にグィド・カンテッリ指揮者コンクールで優勝、グラーツのコレペティトゥーアを経て、ヘルシンキ、カールスルーエ、バイエルン国立歌劇場の指揮者として研鑽を重ね、1981年から84年にはフライブルク、1987年から92年にはカッセルの劇場で音楽総監督を務めた。

2000年にマンハイム国民劇場音楽総監督に就任。05年までの在任中には、指揮者アダム・フィッシャーの名を世界に知らしめる出来事が起こる。2001年4月に急死したジュゼッペ・シノーポリに代わり、同年夏のバイロイト音楽祭で《ニーベルングの指環》の指揮を務めることとなったのだ。同音楽祭デビューであり、急遽の代役にも関わらず、大成功をもたらしたフィッシャーには「バイロイトを救った!」と大賛辞が巻き起こり、その後も04年まで《指環》の指揮をとった。同音楽祭では2006年と07年には『パルシファル』を指揮。

フィッシャーはすでに、メトロポリタン歌劇場、ミラノ・スカラ座、英国ロイヤル・オペラ、バイロイト音楽祭など、欧米の著名な歌劇場に定期的に招かれ、数々の成功をおさめているが、ワーグナーのスペシャリストとしての名声は確立されているといえる。

その一つが、2006年より〈ブタペスト・ワーグナー・フェスティバル〉の芸術監督。同音楽祭は当初、2006年からワーグナー生誕200年に当たる2013までの開催が決定されていたが、予想以上の高評により継続された。“ワーグナーの聖地”と称されるバイロイト音楽祭と同様、ワーグナーのオペラ全作を制作上演を果たしたこの音楽祭において、アダム・フィッシャーの存在は大きい。なお、2007年から10年にはハンガリー国立歌劇場芸術監督も務めた。

ウィーン国立歌劇場には、1980年に『オテロ』を振ってデビュー。以来、『ばらの騎士』、『こうもり』、《ニーベルングの指環》、『フィデリオ』、『カヴァレリア・ルスティカーナ』、モーツァルトのダ・ポンテ・チクルス、『道化師』など、数々の作品を指揮している。

ウィーン国立歌劇場での《ニーベルングの指環》を指揮するに当たり、フィッシャーはオーケストラへの信頼を語っている。

「指揮者にとって、指揮をするときに重要なのは「知性」と「感情の高揚」のどちらかと尋ねられたら、「感情・・」と言いたいところはありますが、それだけではダメなのです。「感情」が「知性」をおびやかすことはできません。指揮者は常に、「感情の高揚」から沸き起こるきらびやかな響きを聴きながら、「知性」をもって指揮をすすめるのです。ウィーン国立歌劇場のオーケストラには、オペラ演奏の偉大な伝統をみることができます。ウィーン国立歌劇場におけるオペラ上演は、それゆえにまったく信頼できるものなのです。この歌劇場とオーケストラのように、毎晩、信頼できる上演が可能な劇場ばかりではありません」

リッカルド・ムーティ

Riccardo Muti
『フィガロの結婚』指揮

Photo:Kiyonori Hasegawa

ナポリ生まれ。生地の音楽院でピアノを学んだ後、ミラノのヴェルディ音楽院に進み、作曲と指揮を学んだ。1967年にグイド・カンテッリ国際指揮者コンクールで1位を獲得したことで、一躍、批評家や音楽ファンの注目を浴びる。翌年にはフィレンツェ五月音楽祭の首席指揮者に任命され、1980年まで務めた。

1971年、ヘルベルト・フォン・カラヤンの招きにより登場したザルツブルク音楽祭では、常連指揮者として活躍をみせている。

1972年から82年まではロンドン・フィルの首席指揮者、1980年から92年まではフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督、1986年から2005年まではミラノ・スカラ座の音楽監督を務めた。2010年からはシカゴ交響楽団の音楽監督に就任している。

また、2004年にはルイジ・ケルビーニ・ジョヴァーレ管弦楽団を創設。今年3月には、同オーケストラと日本の若手演奏家により特別編成された東京春祭特別オーケストラとの合同演奏会を開催した。

世界中の主要なオーケストラのほとんどすべてでタクトをとっているが、なかでもウィーン・フィルとの関係はことのほか深く、1992年の同オーケストラ150周年記念コンサートのほか、数々の記念すべき名演を残すなど、とりわけ充実したものとなっている。同楽団からは金の指輪を贈呈されているが、これは格別の尊敬と愛情の証しとして、ごく限られた指揮者だけに贈られるものである。

ウィーン国立歌劇場には、1973年にヴェルディの『アイーダ』でデビューした。これまでに『ドン・ジョヴァンニ』、『運命の力』、『メフィストフェレ』、『ノルマ』、『フィガロの結婚』、『リゴレット』、『コシ・ファン・トゥッテ』などを指揮。

ムーティは、長いキャリアにおけるモーツァルトの音楽への貢献に対して、ザルツブルク・モーツァルテウムよりシルバー・メダルを授与されているが、『フィガロの結婚』はムーティにとって初めて指揮をしたモーツァルト・オペラであり、「特に愛着をもっている作品」と語っている。

特定の歌劇場でのポストを持たない現在、ムーティのオペラ指揮はザルツブルク音楽祭、ラヴェンナ音楽祭などが主な場となっており、ウィーン国立歌劇場日本公演で指揮をとることは、世界中のオペラ・ファン垂涎の的になっている。