349年の輝かしい伝統と洗練!圧倒的人気を誇るバレエの殿堂、華やかに来日!
パリ・オペラ座バレエ団 2010年日本公演
「シンデレラ」全3幕
ハリウッドを舞台に描く 華麗なスター誕生物語!
“シンデレラ・ストーリー”―それは女性たちの、時代を超えた永遠の憧れ。巨星ヌレエフがパリ・オペラ座に遺した本作は、おとぎ話の舞台を現代人にとっての夢の世界――きらびやかな映画界に移し変えた物語です。 チャップリンやアステア、ジーグフェルド・フォリーズ、キング・コングが銀幕で活躍した時代。頼りない父親のもと、継母と二人の義姉に虐げられながらも、映画に憧れるヒロイン、シンデレラは、怪我をした映画プロデューサーを介抱してあげたことから、一躍、映画界への扉が開かれます。「人生は短い。若く美しい今こそ映画に出るべきだ」とプロデューサー。彼が見せてくれる魔法のような四季のファッション、オートクチュールのドレスとメイク。そして“かぼちゃの馬車”ならぬリムジンに乗って、彼女は撮影所にのりこみ、舞踏会のセットでハンサムな映画スターとテスト撮影を受けることになります。 スターダムと有名人との恋愛。憧れの世界が近づいた途端、けれどもシンデレラの心に不安がよぎり、彼女はその場を逃げ出してしまうのです・・・。 舞台上につぎつぎ展開していくハリウッド映画ばりの豪華なセット。実在の映画作品をほうふつとさせるシーン。そこで右往左往する映画監督や助手、メイク係などのスタッフと映画の出演者たち。そしてもちろん、男性がトゥ・シューズを履いて演じる継母や、いじわるな義姉たちも大活躍! 洗練された舞台で繰り広げられるのは、逆境に負けず、自らの心の迷いや不安に打ち勝って夢をつかみ取る女性の物語。そしてヌレエフの振付ならではの技巧的で華やかな踊りの数々です。パリ・オペラ座ならではのまばゆい舞台にどうぞご期待ください!
ヌレエフが創りあげた新しい“シンデレラ・ストーリー”
ルドルフ・ヌレエフ
キーロフ・バレエ団出身の天才ダンサー、ルドルフ・ヌレエフは1961年、パリ公演直後に衝撃的な西側への亡命を果たし、英国ロ イヤル・バレエ団をはじめ著名バレエ団の舞台に華々しくデビュー。1983年パリ・オペラ座バレエ団芸術監督に就任し、この「シンデレラ」をはじめ、「白鳥の湖」、「ラ・バヤデール」「ロミオとジュリエット」など数々の古典バレエを舞台化。また、マニュエル・ルグリ、シルヴィ・ギエムをはじめ多くの優秀な踊り手を見出して多大な功績を残しています。1986年「シンデレラ」初演は、シンデレラをシル ヴィ・ギエム、映画スターをシャルル・ジュドそして二人の義姉をエリザベット・プラテルとモニク・ルディエールという、 “ヌレエフ世代”の豪華な顔ぶれで上演されました。また自らもケン・ラッセル監督「ヴァレンティノ」でタイトルロールを演じ、映画の世界を経験しているヌレエフも、夢を創り出す映画プロデューサー役を演じています。
王子様は映画スター
装置を担当したペトリカ・イオネスコから、ハリウッド版「シンデレラ」のアイディアを提案されたとき、ヌレエフは「ペローの物語をむやみに変形することを恐れて」最初はかなりためらいがあったようです。しかし、次第にこのアイディアにとらわれ、新しいヌレエフの「シンデレラ・ストーリー」を創りあげました。ヌレエフ版「シンデレラ」には、仙女もかぼちゃの馬車もお城も登場しません。仙女はシンデレラを銀幕のスターへと導く映画プロデューサー、大きなかぼちゃが一瞬にして変身するのは馬車ではなく、豪華なオープンカー。そしてお城はハリウッドの映画スタジオ。シンデレラは、アステア-ロジャースのミュージカル映画を思わせるような煌びやかな螺旋階段から登場し、舞踏会ではなく、華やかな映画セットの中で王子様ならぬ映画スターと踊るのです。
─大切なのは、愛の力が外見という社会的障壁を打ち破る出会いの物語であるシンデレラを歪めたりごまかしたりすることではなく、この物語をわれわれの世紀の夢、第7芸術である映画という夢の世界に移し換えることだ。若い女性は今日何を夢見ているか?それは映画に出ることだ。往時の輝きを失っているとしても、ハリウッドは今も神話的な場所であり、映画への欲望の結晶である。今日、映画以上に、シンデレラを有名にするものが見つかるだろうか?
ペトリカ・イオネスコ(装置)
1930年代のハリウッド
1930年代は「ハリウッドの黄金時代」とも言われ、映画の都ハリウッドが最も輝いていた時代。このヌレエフ版「シンデレラ」にも登場する「キング・コング」がはじめて製作されたのは1933年。シンデレラが父親の洋服を着てまねをするチャップリンの「モダン・タイムス」(1936年)や 、ジョン・フォード監督による「駅馬車」(1939年)、ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル主演の超大作「風と共に去りぬ」(1939年)、そしてフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースによる「トップハット」(1935年)、「コンチネンタル」(1934年)といったミュージカル映画の傑作も続々と誕生しました。華やかなりしハリウッドの雰囲気を、「シンデレラ」のそこかしこから感じていただけるに違いありません。
プロコフィエフと「シンデレラ」
20世紀のロシアを代表する作曲家セルゲイ・プロコフィエフは、1918年ロシア革命の混乱の中、自由に音楽を創作できる環境を求め、シベリア・日本を経由してアメリカに亡命。アメリカ、パリを拠点に作曲家、ピアニストとして活躍しますが、望郷の念止みがたく、1936年にソ連に戻ります。ヌレエフは「1930年代というのは、プロコフィエフの人生においては、彼がソ連に帰国し、西洋へのノスタルジーに身を焦がしていた時代である。プロコフィエフの「シンデレラ」は、あまりロシア的ではない。彼の作った中で最も西洋的な作品でさえある。音楽が調子を決定し、同様にダンスも状況との関係によってずれていく。シンデレラの物語を映画の世界に移し換えることで、私はこのズレを表現したかった」と語り、シンデレラの骨組みはそのままに新たな物語としとして組み立てたのです。