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2016/12/28 2016:12:28:17:56:51

「孤独な祝祭 佐々木忠次」週刊オン★ステージ新聞書評
週刊オン★ステージ新聞 (2017年1月6日付号)に掲載された、舞踊評論家の新藤弘子さんによる書評をご紹介します。


バレエとオペラで世界と闘った日本人「孤独な祝祭 佐々木忠次」 
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  ページをめくるごとに驚きがあり、笑いも涙もある。ここまで書くのかという静かな衝撃もある。
 2016年四月、目黒通り沿いにある東京バレエ団社屋の一室で、八十三年の生涯を閉じた佐々木忠次。世界の一流の舞台芸術を日本に紹介し、東京バレエ団を率いて自らも世界を駆け巡った佐々木の生涯を、雑誌「AERA」の人物ルポ「現代の肖像」などで知られる追分日出子が、一冊の評伝にまとめた。
 書き出しは、1986年、東京バレエ団が初めてパリ・オペラ座ガルニエ宮で『ザ・カブキ』を上演した際の舞台裏の描写だ。日本では思いもよらぬようなトラブルにより、スケジュールが狂ったことで苛立つ佐々木は爪を噛み、オペラ座の中を小走りに動き回る。
 続いて東京バレエ団新社屋建築当時に、外観や内装への熱烈な思い入れや並外れた買い物好きのエピソードがユーモアをこめて語られ、常に前のめりで走っていたという佐々木の姿を読者の胸の中にじゅうぶんに立ち上がらせてから、記述は過去へ、彼の生い立ちへとさかのぼってゆく。
 1933年東京の本郷で生まれ、幼い頃を戦争の中で過ごした佐々木が、戦後はじめて行った日劇で、星の輝く群青色の舞台に「わ~、きれい...」と陶然とし、その場に座り込んでしまったというエピソードは、その後の佐々木の歩む道を示唆するようで印象的だ。
 大学で演劇を学んだあとオペラの舞台監督の仕事に打ち込み、美術の妹尾河童や演出の栗山昌良、指揮の岩城宏之ら、当時の気鋭の舞台人たちとスタッフ・クラブを結成するくだりは、仕事人としての佐々木の根幹がどのように作られていったのかが伺えて興味深い。そして佐々木が三十一歳のとき、東京バレエ団が発足する。
 代表に就任した佐々木が、当初は拠点も定まらなかったバレエ団の足場を徐々に固め、海外公演を重ねて世界でも喝采をもって迎えられるカンパニーへと育てていく過程は、戦後日本がたどった成長の歩みとも重なって読み応えがある。西欧のバレエ団とはダンサーの体格ひとつとってもまだまだ大きな差があった頃、日本人ならではの強みとして、いちはやく佐々木が着目し、磨き上げたアンサンブルの美しさは、現在の東京バレエ団の中にも脈々と受け継がれている。インプレサリオ(興行師)として、カルロス・クライバーやミラノ・スカラ座など音楽界の大物を日本に招こうと果敢な直接交渉を繰り広げる様子にも目を見張るが、バレエ愛好者の興味をそそるのは、やはり世界バレエフェスティバル誕生の経緯や、世界的な振付家やダンサーとの出会いと別れかもしれない。
 プリセツカヤ、クランコ、ギエムら多くの人が登場するが、とりわけモーリス・ベジャールとジョルジュ・ドンについては、「ミラノ・スカラ座への道 ベジャールの時代」という一章で詳述されている。
 『ボレロ』のメロディについての佐々木の問いにドンが答えた「そうなんだ、誰でも踊れるんだ」という言葉には、読む人それぞれに湧き上がる思いがあるだろう。
 第三回世界バレエフェスティバルでドンと東京バレエ団が初共演した『ボレロ』の熱狂。『ザ・カブキ』のリハーサルを観たベジャールが流した涙。2007年、ローザンヌで亡くなったベジャールとの別れの描写には胸が痛む。
 著者の取材は、東京バレエ団のダンサーやスタッフはもとより、海外で通訳を担当した人物や、長く絶縁状態にあった人々にも及ぶ。
 芸術への無理解に怒りを噴出させる一方で稚気にあふれ、人をもてなし喜ばせることが大好きだった佐々木の、相克に満ちた人生が行間から煌めき出すようだ。
 あとがきに書かれた「どれほど多くの人の人生を豊かなものに変えたか、一番わかっていないのは本人だと思った」という著者の言葉に、彼の手がけた舞台を観たひとりとして、深く賛同せずにはいられない。(文藝春秋 刊) 

新藤 弘子