What's NewNews List

2015/04/11 2015:04:11:14:44:29

【WBF】バレエフェス、サンキュー! 佐々木忠次(世界バレエフェスティバル総監督)

今回、世界バレエフェスティバルは39年目を迎える。1976年にスタートし、3年ごとに開催して14回目。出演したダンサーは200人を超える。振り返ってみれば、39年の間に時代は大きく変わったが、よくぞここまで続けてこられたものだと、我ながら思う。3年ごとというのがちょうど竹の節のようで、その一つひとつの節目を思い出すと、この39年間の世界のバレエ界の動き、日本のバレエ界の移り変わりが、実感をともなって理解できるような気がする。このフェスティバルも一度成功したら、次からは楽だと考える人がいるかもしれないが、毎回毎回ストレスが溜まりっぱなしで、フェスティバル開幕の1か月前から、終了するまで気の休まる暇がないほどである。
1thWBFカーテンコール1976(photo_Seiich Hasegawa).jpg昔のことに思いをめぐらすと懐旧の情を揺さぶられるが、第1回、第2回のころのことは、セピア色ながら不思議と鮮明に憶えている。いまでこそ海外から来日するダンサーは引きも切らず、ダンサーたちにとって日本は格好の稼ぎ場になっているが、第1回当時は海外からアーティストを招くことがまだ珍しい時代だった。出演料を払うにしても、「日銀ライセンス」と呼ばれていた外貨の支払い証明書が必要だったのだ。今ではEメールやファックスでやりとりをしているが、当時海外との通信手段は主に手紙だったし、急ぎのときは電報だった。その後テレックスで連絡できるようになって、ずいぶん便利になったと感じたものである。電話も旧ソ連に連絡するときには、電電公社(NTTの前身)にあらかじめ何時に電話をしたいと申し込まなければならなかったが、それでもなかなか繋がらなかった。出演の条件もこちらが提示すれば、アーティストの方でごねることはほとんどなかった。そんな時代から、このフェスティバルはスタートしたのだった。第1回目に出演した今は亡きマーゴ・フォンティンは、このフェスティバルの後、リーダース・ダイジェスト誌に寄稿し、「やがて東京が世界のバレエの中心地になるだろう」と書いて日本のバレエ関係者を驚かせた。
第2回目は1979年、観客に振付に対する認識を高めてもらおうと考え、「プティパからベジャールまで」というサブタイトルをつけて、さまざまな振付家の作品を紹介した。いま振り返って日本のバレエ発展の歴史を考えると、この企画は我ながらなかなか画期的だったと思う。第3回は1981年、パ・ド・ドゥやソロだけでは単調になってしまうという考えから、ジョルジュ・ドンの踊るベジャール振付の「ボレロ」やランダー振付の「エチュード」を東京バレエ団のコール・ド・バレエつきで上演した。
このころから、世界バレエフェスティバルはわが国のバレエ・ファンの間で完全に定着したようだ。オリンピックでもワールド・カップでもそうだが、世界の一流プレイヤーたちが真剣に力の限りを尽くして競技すれば、観るものは感動を覚えずにはいられない。その感動と興奮が3年ごとにくり返されて、14回も続いている。
幸い、このフェスティバルはいまやバレエの世界において、とても有名な存在になった。自薦他薦の売り込みも多く、参加を断るのに苦労しているし、インターネット時代になって海外から観にきたいというバレエ・ファンも増えてきている。日本はバレエにおいても世界有数の市場であることは間違いないが、その牽引車的な役割を担ってきたのがこのフェスティバルといって過言ではないだろう。世界のバレエ界の潮流、新しい才能の台頭をいち早く紹介するのもこのフェスティバルの役割だとみなされているから、そうした期待を裏切るわけにはいかない。私が主宰者の立場でこのフェスティバルについて語れば、自画自賛の謗りを免れないから、第10回を機に新書館から出された「世界バレエフェスティバル写真集」にアレッサンドラ・フェリのコメントが載っていたので、それを引用させていただく。
「世界バレエフェスティバルは間違いなく世界でもっとも名声を勝ち得たガラ・コンサートです。・・・ここには芸術のための余地がきちんとあります。ダンサーがみな自分自身を表現できるのです。ですから、これは私が参加する唯一のガラ公演なのです。・・・このフェスティバルでは私たちはみんなで舞台を分かち合うことができます。こうしてスターたちと感動を分かち合う機会を持てるというのは、まさに、このフェスティバル特有のものだと思います」(アレッサンドラ・フェリ)。参加者にこう言ってもらえるのは主催者冥利に尽きる。
「継続は力なり」という言葉があるが、39年続いてきたこのフェスティバルは継続することで新たな価値を生むことを、はからずも証明してきたともいえる。世界的に見ても、この種の催しで39年も続いている例は少ないだろう。これからも周囲がまだ存在意義を認めてくれるうちは、このフェスティバルを存続すべきであると考えている。私が若いころに誕生させたこのバレエフェスは、多くの観客の皆さまに支えられて39歳の立派な大人になったが、いま振り返ると私もバレエフェスとともに成長させてもらったような気がする。これまで13回にわたるバレエフェスの公演会場に足を運んでくださった観客の皆さまにあらためて御礼を申し上げたい。そして私に多くの才能豊かなダンサーたちにめぐり合わせてくれた「バレエフェス」という機会にも感謝を捧げたい気持ちだ。マーゴ・フォンティンの予言どおり、いま「東京が世界のバレエの中心地」と認められているのも、バレエフェスのおかげと言っていいのかもしれない。
この原稿を書いていて、突然降って湧いたように、昔このフェスティバルを観た外国の友人から「これは日本が世界に誇れる‶文化資源″の一つだ」と言われた記憶が蘇ってきた。39年を迎えた今、この言葉が意味をもち始めたのかもしれない。私の後を継ぐ者たちの手でさらに回数を重ねることによって、バレエフェスがより大きな"日本の文化資源"に成長していってほしいと願っている。

※本稿は2006年8月号のNBSニュース掲載分に加筆したものです。

※写真は第1回世界バレエフェスティバルカーテンコールより(撮影:Seiichi Hasegawa)