「ラ・バヤデール」~誕生から現在まで~ (1)

「ラ・バヤデール」~誕生から現在まで~ (1)

2009年7月 9日 14:09 レポート | 新着情報

バレエ評論家の村山久美子さんに「ラ・バヤデール」の誕生、変遷、そしてマカロワ版の特徴を解説していただきました。これから3回にわたって届けします。
「ラ・バヤデール」をより深く知っていただけること間違いなし。貴重なエピソードも盛り込まれた連載は鑑賞前に必読です。


「ラ・バヤデール」誕生

 『ラ・バヤデール』は、バレエ史上の最重要人物マリウス・プティパが、1877年にサンクト=ペテルブルグのボリショイ劇場(現マリインスキー劇場)で発表した。1847年にロシアにやってきたフランス人プティパは、1869年にバレエ界のリーダーとなる。その後の1870年代のロシアは、貴族が民衆を理解しようと彼らの間に入っていった時期で、民主化の気運が高まっていた。そのような社会の動きは当然芸術にも反映された。だがプティパは社会の民主化のテーマをバレエにすることはなく、バレエだけが現実と離れた夢物語を扱っていると批判された。
 このような状況に業を煮やし、ペテルブルグ新聞の発行人であり編集者のフデコーフが、台本の執筆をプティパに申し出、彼の台本で出来上がったバレエが、当時のロシア社会の動きを取り入れた『ラ・バヤデール』だった。陰謀で毒蛇に噛まれた舞姫ニキヤは、愛していない大僧正に、愛と引き換えに毒消しを提示され、それを床に投げ捨てて自ら死を選ぶ。自分で自分の運命を決定したニキヤは、民主化の波で現れた女性解放の動きに合致する新しい女性像だったのである。
 だが、バレエ『ラ・バヤデール』に成功をもたらしたのは、このような社会の気運の反映だけではなくむしろそれ以上に、プティパの創作の新しさだった。最大の見せ場である幻影の場の成功は、ロマン主義バレエの「バレエは芝居である」ということを強調して行ってきたマイムを主とする具体的な叙述のバレエから、舞踊が主の抽象的なバレエに、かなりの程度に移行したということ語っていたのである。


村山久美子(バレエ評論家)

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